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“課金”という言葉の罪

“課金”という言葉の登場は、「作り手の労力に対して対価を払う」システムに異変を起こした。支払う、という行為が特別なものに昇格してしまったのだ。

 

これはけっこう大変なことである。

課金、という概念は消費の質と制作者の立場の低下をもたらす。

消費側からすれば、受け取るモノは代替がきくものである。

簡単に手に入るため、そのモノに対するストーリー(手に入れるまでの苦労or手に入れてからの思い出)がない。ポケモン新作まだかな、おこづかい足りるかな、といった気持ちの高まりがないわけです。ゆえに愛着がわきにくく執着もない。すぐに飽きる。結果、浅い消費のサイクルがどんどん早まっていく。

一方の制作側は、モノをつくるためにかなりの時間と労力と技術とを投下する。そのぶん彼らとモノとの間にはたくさんのストーリーが蓄積されていく。それだけたくさんの想いをこめたモノが浅い消費のひとつになる・・・。

この制作側と消費側の熱の差。切ない。

 

それから、アマチュアもプロもごっちゃになる、というのも至極ひどい話だ。誤解を恐れずにざっくりと、片手間で、つまり趣味でつくるアマチュアさんと、全部の時間をかけて仕事としてつくるプロさんと定義する。もちろんどちらも「好きだから」つくっていることは一緒で、そこに差はないだろうけれど。

違うのは、後者はそれを食べていくための手段として、覚悟を持って選んでいるということ。四六時中どうしたらもっと良くなるか考えて、技術を向上させて、プロとしての責任を持って市場に出している。(8割の出来でよしとされるのがアマ、10割やりきって初めて評価されるのがプロだと思っています)

それをプロアマ一緒くたにして、値切るどころか正当な対価を払わない、とはいかがなものか。

ねえ。

 

出典は見つからなかったけれども、日本アニメの未来についての記事で、アニメーターの待遇についてのものを読んだことがある。制作費やその世界のピラミッド構造から、育てるべき人材に安い賃金(歩合制なのでお給料という感じではない)でひたすら原画を描かせて現状を維持してきたために、ガンダム世代引退後を引っぱっていける人間がいない、といったものだった(はず)。

この記事で特に問題だと思ったのは、アニメが好きだから、という理由だけで原画書きを続けている、という現状だ。それでも金銭面での苦労からやめていく人間が後を絶たないという。

 

対価を渡してほしいモノを買う。それを元にまた新しくモノをつくる。

その正しいサイクルをまわさずに、制作側に好きだからいいでしょ論を強いるようでは、つくる産業は衰退してしまうように思うなあ。

 

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顧客確保のために敷居を下げたい、という思いで基本無料の課金制度は始まった。

課金無課金ではなく、同じ無料でも、あくまで「試用」にとどめれば、モノの価値、作り手の価値を下げずに済むと思う。

場所や時間、イラストであれば画質の制限など手は色々あるが、いずれにせよ無料で「手に入る」ことは避けるべきだ。

 

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制作側ばかり盛り上がってしまったけれど、消費側はどうなんだろうか。

課金概念は、モノを買う時のかせになるように思う。

特に、これといった判断基準のない、知識、情報や音楽、イラストなど。

モノを買う時のハードルが上がる、と言った方がわかりやすいかもしれない。

 

ためらわずにきちんとお金を出すべきときはある。

いつまでもひのきのぼうを振り回していてはボスには勝てない。

 

無課金は何も消費しない代わりに何も生産しない。

時間だけを少しずつ、そして確実に浪費していく。

 

無課金人生を送る人間に誰が課金しようと思うんでしょうね?

 

 

 

(この記事は以前書いていたブログの再録です)